平野啓一郎さんの小説「空白を満たしなさい」
先の読めない展開、これはどういった類いの物語であるかということを掴みきれないままハラハラ、ゾクゾクといった感情に急かされるように上巻を読み終え、下巻で謎が明かされていく展開にはページを捲る手が止まりませんでした。
特に分人の話は興味深く、上巻・下巻にあるゴッホの絵を何度行き来したか分かりません。
空白を満たしなさい
佐伯という人間について
彼については最後まで謎だらけで私には難しい存在でした。
私は、あなたたちが、その足で踏みつけにしている、あなたたち自身の影なんです。
「空白を満たしなさい」(下)より引用
ただ彼について思うのは彼自身が「あなたたち自身の影」と言っていたように私たちが少なからず思っていることの代弁者であるからこそ徹生に対して、また読者である私に対してあれ程に影響力を持っていたのだろうと思います。
幸せの概念だったりお金への価値観は人間が勝手に創り出したものであると私自身も思うところがあります。ただ、言い過ぎだったり相手を不快にさせようというセリフの数々は昨今のX(エックス)だったりYouTubeのコメント欄を思い出させる不快な存在でしたね。
佐伯は何故自殺をしたのか
彼は鳩殺しを徹生に指摘されてから徹生との分人が自分の中に形成されていたのかもしれません。
自分と真反対と思える存在の徹生が憎らしくも羨ましくもあり、だから徹生について色々調べて情報を得て徹生になり代わりたいと思う分人が現れ、彼のストーカーのようになってしまったのかなと。
徹生が佐伯の分人に強く影響されたように佐伯も徹生の分人に強く影響されていたのかもしれません。だから自分がやったことを徹生がやったことだと言い出したり自分を徹生の父だと言い出したりしたのだと思いました。
その分人が元のリストカットをして世の中を斜めに見ていた元の分人を消そうとしたのかそれとも逆か、彼は自殺してしまったのだと思いました。
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分人について
今に始まったことではないが、X(エックス)やYouTubeのコメント欄ではジェンダー論争だったり貧富の差による妬みやひがみが多くみられる。そこに面白がって薪をくべるものやただただ人を批判したいだけの悪意のあるコメントたち・・・
それを見なければいいのについ目にとめてしまう自分がいて衣食住できて十分幸せな環境にいるはずの自分を嘆いたり、落ち込んだり怒ったり不安になったりする。
最近の「他人に対して余裕のない自分」、「攻撃的な言葉が頭をよぎる自分」はもしかすると知らず知らずの内ににネットの住民との「分人」を自分の中に作り出していたからなのかもしれない。
本書を読んでいて自分は唯一無二の「個」ではなく環境や対人関係毎に形成された「分人」の集まりだという考え方に触れ、今まで一度も目にしたこともなければ聞いたこともない考え方だったが体の中にストンと落ちてきて心がふっと軽くなった心地がした。
それぞれの環境、対人関係毎に分人が形成される。その結果として、今の土屋さんがある。
個性というのは唯一不変の核のようなものではなくどういう比率で、どんな分人を抱えているかという、その全体のバランスです。
「空白を満たしなさい」(下)より引用
「分人」という考え方をすると自分の心を健康に保つのはとても簡単なことのように思えた。
今自分の中に嫌な自分(分人)がいるのだとしたら「消す」のではなく他の分人の比率を増やせばいいのだ。
例えば私の場合だとネットの住民の意見を見る機会を減らし、素敵な友人と会う機会を増やしたり本を読んでその本の著者の分人を自分の中に作ることでネットの住民の分人の比率はどんどん減っていき素敵な分人たちで満たすことができる。
環境が悪いなら環境ごと変えてしまって新しく素敵な人間関係を構築していけばいいのだと思う。新しい人に出会ってその人との分人を形成していく。
一度形成された分人はしばらく自分の中で影響力を持つかもしれないが、それも他の分人たちで満たしていくことで時間とともに薄れていくのだと思う。それまで突き放したりせず見守っていこうと思う。
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私は「アナと雪の女王」を観たことがないくせになぜか「レット・イット・ゴー~ありのままで~」はふとした瞬間に頭の中で流れくる。
それだけ人の耳に残る印象的な曲だということなのだろうが歌詞の中の「ありのままの自分」というところがいつも余韻として私の頭の中に残った。そもそも「ありのままの自分」ってなんだ?と。
しかし本書を読んでそのモヤモヤが一気に晴れた。
誰といる時の自分も「ありのままの自分」であることに変わりなく、「この人といる時の自分が好き」と思える人と過ごすことこそが「ありのままの自分を愛する」ということに繋がるのだと思えました。
これは恋愛、結婚等に限らず全ての人間関係において同じことだと思う。
「この人に〇〇してほしい」という願望だけある自分は私は好きじゃない。献身的な気持ちを持っている私の方が好きだ。そういう気持ちになれる人と一緒に過ごしていけばいいのだと今後人間関係を築いていくために重要なことを教得てもらえた気がする。
ラデックとの会話について
ラデックは徹生が変わっていくきっかけとなった人物です。
人を助ける為に死んだラデックと自殺した徹生の「死に方」に関する会話で、ふと呪術廻戦の主人公の「自分が死ぬ時のことは分からんけど生きざまで後悔はしたくない」というセリフを思い出しました。
呪術廻戦のこの回のセリフが出るまでのやり取りも含めて大好きなシーンなのですが、いつ死ぬかどのように死ぬかを選べる人間なんて殆どいないわけで、ならどう生きるかということを大切にしていきたいと今一度思いました。
伊勢物語
伊勢物語についてはちゃんと読んだことがなく(学校では習ったはずなのですが・・・)、ラデックとの会話で内容が気になったのでその内容について調べてみました。
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
現代語訳)この世の中に、全く桜というものがなかったなら、春を過ごす人の心はどんなにのどかであることでしょう。
「もし世の中にまったく桜がなかったなら、桜の花が咲くのを待ち望んだり、散っていくことを悲しんだりすることもなく、春のひとの心はもっとのどかだっただろうに」という歌を「とても繊細なやさしさを感じる」というラデックの心の美しさを感じました。
確かに親王がその時置かれていた状況とあわせて詠むと親王を思いやる気持ちから来ていると感じます。
やや久しくさぶらひて、いにしへのことなど思ひ出で聞こえけり
現代語訳)しばらくぶりにお会いしてかなり長時間(その場所に)お仕え申し上げて、昔のことなどを思い出し(てお話し)申し上げました。
ここまでのラデックさんの説明で伊勢物語を読みたくなりました。出家して一切の関係を断ち、土地を離れた後も会いに来てくれる人がいるというのはとても幸せですね。
最後に
どんなに頑丈な人間でも人間である以上、生きている間に一度も、一秒も「死にたい」と思ったことがないということはないでしょう。
私だって過去に思ったことがあるし、これからそう思うこともあるかもしれません。
でもこの先、そう思うことがあったとしても本作が私を救ってくれる。そう思える作品に出会えて私は幸せだと思います。