太宰治の「人間失格」
何故だか最近本書を読みたい気持ちに駆られて十代の頃に読んで以来、もう一度最初から読むことにしました。
十代の頃にどういった感想を持ったかは詳しくは思い出せません。ただ読んでいる最中「この人(葉蔵)は私に似ている」と思っていたことと葉蔵に惚れていた記憶はあります。
今回改めて自己否定し、自ら破滅していく葉蔵にこちらも心をすり減らしながら、でも小説の書き方の通り淡々と読み進めておりましたが最後にバアのマダムの「神様みたいないい子でした」という言葉に私自身が救われた気がして本作を読んでいて初めて涙が出ました。
十代の頃に出なかった涙が出たのは大人になってこの世の中に嘘や裏切りが多くあることを知ってしまったからでしょうか。
人間失格
葉蔵という人
自分の、人間に対する最後の求愛でした
ー「人間失格」より引用ー
私も葉蔵と同じように小さい頃、よくお道化ていました。自分でもとんだ役者だなと思ったこともあるぐらいです。
その為、周りからは「天然だね」と言って笑われたり可愛がられたりしました。私は「天然」と言われることを狙ってそうしていたわけではなく、ただ家族や周りの人に笑顔でいてほしかっただけです。(当時両親はよくケンカをしていました。今は両親の仲はとても良いです。こんなに変わるものかと娘の私でも驚くほどです。)
葉蔵は周りの人間を極度に恐れていながらも、お道化をコミュニケーション手段としました。
恐れているものに対しては殻に閉じこもったり、逆に攻撃的になったりすることもあるかと思いますがその中で人を笑わせるお道化を選んだのは葉蔵の性根が優しい人だったからだと思います。それからとても愛されたかった人なのだと思います。
私は葉蔵を全く罪のない人間だとは思っていません。彼は若く、それゆえ繊細過ぎるぐらい繊細で愚かでもありました。
でも彼を無償の愛で包んでくれる人が近くにいたならば・・・と思ってしまいます。
女性関係
人に好かれることは知っていても、人を愛する能力に於いては欠けているところがあるようでした
ー「人間失格」より引用ー
葉蔵の言動は確かに女性の心を動かすものがありますし、女性の心の内をよくわかっていると思います。
それは作者である太宰治自身がモテてきたからでしょう。ただ女の立場からするとこんな男にハマってしまったらたまったもんじゃないと思いますね。
「人間失格」が書かれた頃には太宰治にとってこの世はきっとどうでもよく、読者に同情も許しも求めておらずただ淡々と書かれているのが逆に葉蔵や太宰の心の内を考えるに至りました。
ヨシ子
小さい頃から「人間」の嫌な部分を多く目にしてきた葉蔵にとって「人間」を信頼しきっているヨシ子はとても尊いものでした。そしてヨシ子の存在は葉蔵にとって希望の光でもあったと思います。
それがある日その信頼によって犯され、夫である自分は助けることもできなかった。光を汚された葉蔵の心はヨシ子が自分なんかを信用したために・・・と一層自己否定の方向へ進み、いよいよ真っ暗闇へと落ちていきます。
竹一と堀木
竹一と堀木は正反対の人間と言えると思います。
竹一
葉蔵は竹一のことを見下していたかもしれませんが竹一のように素直に人のことを褒めることができる人がずっと彼のそばにいれば彼の人生はもっと違うものになっていたかもしれないと思います。
なにせ自分の好きな絵を通して本来の自分の姿を見せることができたのは竹一に対してだけです。彼の隣にいるのが堀木ではなく竹一だったとしたら後に「友情」を築くこともできたのではないでしょうか。
堀木
堀木は自分大好き人間でケチで最低な男です。薬屋の奥さんと同列で嫌いです。
十代の頃は人を陥れようなんて人間がいるなんて信じていませんでした。けれど大人になってそういう人はこの世の中には大勢いることを学び、その人たちを避けて生きるように必死です。
葉蔵と堀木は互いに軽蔑しながら附き合い、そうして互いに自らをくだらなくしていく存在であると作中で語られますがそうした相手と縁を切れないほどに葉蔵の心許せる人がいなかったのだと思うと悲しく思います。
最後に
生活力もなく酒に薬に溺れて「廃人」となった葉蔵は自らを「人間失格」と判断しました。
しかし、正直に純粋に生きようとすると足をすくわれるこの世は正しく、だまされないように相手を疑ったりうわべを取り繕ったりするのが「人間」らしいと言えるのでしょうか。
そうはいってもそうでないと生きていけないと気づいている私たちにとって「人間失格」は胸に深く刺さる作品だと思います。